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July 31 2018

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オウム事件より犠牲者多い日航ジャンボ機事件: 植草一秀の『知られざる真実』

“今年もあの日がやってくる”

“1987年6月19日に航空事故調査委員会は、同機が1978年6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故後のボーイング社修理が不適切であったために圧力隔壁が破損したことが事故原因であるとの報告書を公表した。

しかし、この報告は信用できない。

123便は外部からの衝撃で尾翼を失い、これが原因で操縦不能に陥った疑いが強い。

また、123便は横田基地に緊急着陸を検討した模様だが、着陸を断念したか、何らかの誘導により進路を山岳地帯に変更したうえで山岳地帯で墜落した可能性が高いと思われる。

それでも、123便墜落時には多数の乗客が生存していたと見られ、墜落直後に米軍機によって墜落場所が特定され、夜間の救助活動が可能であったはずだが、救助は行われなかった。

事故あるいは事件から33年が経過するいま、私たちは「知られざる真実」の解明を行う責務を負っている”

August 22 2017

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“日本航空の羽田発大阪行きのジャンボ機が今夜,消息を絶ち,墜落した可能性が強まっております。

日本航空に入った連絡によりますと,この飛行機は今日夕方6時すぎに羽田を発った,乗員乗客あわせて494人乗りの123便,ボーイング747型機です。

長野県警に入った情報によりますと,長野県南佐久郡臼田町の警察署に一般のひとから,今夜7時5分頃,群馬県との境に飛行機が落ちた,なにかセスナ機より大きいような飛行機で,旋回して落ち,黒煙があがったということです。

またこの日航機は,右側のドアが故障したため,緊急降下するという連絡をしたあと,消息を絶ったという情報も入っております”

— YouTube: JAL123 墜落事故当時の報道

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日航123便はなぜ墜落したのか

“ここでは、本書〔青山透子著『日航123便 あの日の記憶 天空の星たちへ』〕の問題提起のなかから、5つの「なぜ」について触れておこう。

第1の「なぜ」は、墜落の原因とされた「後部圧力隔壁損壊」説をめぐってである。私自身が見聞きした範囲でも、123便墜落をめぐって、本当に多くの人がこの説に疑問を表明している。運輸省事故調査委員会報告書は、「後部圧力隔壁が損壊し、引き続いて尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の損壊が生じ、飛行性の低下と主操縦機能の喪失をきたしたために生じたものと推定される」という結論だったが、これは説得力がまったくなく、私が地方講演で出会った方によれば、航空整備関係では、「後部圧力隔壁損壊」説をまともに信じる人はいないという。

加えて、1986年10月26日のタイ航空機事故が、「なぜ」の一つの側面を明確にしている。タイ航空機は高知上空で機体後部の圧力隔壁が損壊し、大阪空港に緊急着陸した。その時、機内で何が起きたか。ドーンという爆発音とともに、機内与圧が急激に低下。白い水蒸気のような気体が充満し、乗員、乗客が一瞬で航空性中耳炎になった。だが、123便の場合は急減圧が起きず、白い水蒸気のような気体が生ずることもなかった。つまり、事故調査委員会の「後部圧力隔壁損壊」説は、タイ航空機事故により事実上破綻したと言えるだろう。詳しくは本書を参照されたい。

第2に、「墜落現場の特定がなぜ遅れたか」である。本書によれば、墜落の20分後には、現場は特定されていたことになる。なのに、NHKニュースは墜落現場について二転三転する報道を行った。埼玉県三国山、長野県御座山、群馬県上野村小倉山、同ぶどう峠。これらは御巣鷹山から8~10キロの円のなかに入る。当時の上野村村長、黒沢丈夫氏(元海軍少佐、零戦パイロット)は、青山さんの取材に対して、墜落地点の計測ミスに怒りを隠さなかった。零戦時代の知識でも特定可能なのに、現在の技術で墜落地点が特定できないはずはない、と。なぜ墜落現場の特定が遅れたのか。それは遅らされていたのではないか。救助隊を分散させ、数時間にわたって、御巣鷹山に誰も近づけないようにする何らかの作為が働いたのではないか。本書によれば、黒沢元村長をはじめ、救援にあたった地元の方々のなかには、この点についていまも疑問を抱いている人がいる。

第3の「なぜ」は、上記と関連するが、救助の遅れである。自衛隊が到着するのは12時間後である。これについて本書は、『星条旗新聞』1985年8 月27日付に注目する。米空軍第345戦術空輸団所属の中尉が、C130輸送機で横田基地に向かう途中、123便の緊急無線を傍受。御巣鷹の尾根に煙があがるのを目撃している。すぐに米軍の救難チームのヘリが厚木基地から現場に向かい、午後9時5分に現場に到着。隊員が現場に降りようとしたのだが、在日米軍司令部から「日本側が現在現場に向かっているので帰還せよ」という命令を受け、救助活動を中止して帰還する。生存者の落合由美さんは、「救助ヘリコプターが上空で回っているのがわかった。手を振ったが気付いてくれなかった。自分の周りでは数人の子どもたちの声が聞こえたがそのうち聞こえなくなった」と述べている。なぜ、救難ヘリに帰投が命じられたのか。自衛隊は本当に夜間に到着していなかったのか。最も早く現場に到着したはずの地元消防団員たちは、彼らが朝9時頃現場に到着したところ、「自衛隊員がすでに山の上から降りてきた」という。彼らは一体、いつ現場に到着したのか。

第4に、なぜ遺体は黒こげだったのか、である。ジェット燃料はJET-A/40という灯油の部類でケロシンというが、マイナス50度の上空でも凍結しないように、灯油よりも純度が高く、水分が少ない。燃料は主翼内の区切られたタンクに入っているが、大気中に出たケロシンはガス化しやすく、煤も出にくい。にもかかわらず、主翼の燃料タンクから遠いところに投げ出された遺体が炭化している。遺体が集まっていた所で黒こげ状態が激しかったという。

当時、遺体の歯形で本人確認を行った大國勉氏(歯科医師、群馬県警察医会副会長)に、青山さんは何度もインタビューを試みている。「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯はすすで黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。…二度焼きしたような状況だ」。周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに、遺体だけが骨の芯まで焼かれているのはなぜか。群馬県の検視報告書において担当医が「二度焼き」という言葉を使ったことは、ただごとではない。詳細は本書に譲るが、遺体の惨状はジェット燃料の火力のせいだと思い込んでいた私は、この箇所を読んだとき鳥肌がたった。

第5に、123便墜落の決定的な「なぜ」である。『週刊現代』8月14日号は、この点に関する本書の問題提起を4頁にわたって大きく取り上げている。タイトルは「JAL機墜落25年後の真実」。本書のグラビアにも掲載されている写真で、父母と妹の3人を失ったA氏から提供されたものである。そこに何かが写りこんでいる。これはA氏の父親がR5(右側最後部)ドア近くの窓の外を連続撮影したうちの1枚である。最初の方は、窓の外の普通の風景で、これを撮影したのはA氏の妹で、旅の思い出として撮ったものとされる。だが、その次(10枚のうちの5枚目)から不思議な写真が続く。窓の外に異変を感じ取り、それを確かめるように何度もシャッターを押しているようにも見える(『週刊現代』の著者インタビューより)。

青山さんはパソコン上でこの写真を拡大していったところ、オレンジ色に変色していったという。画像処理の専門家にこの写真の検証を依頼したところ、「円錐もしくは円筒のようなものを正面右斜めから見たようなイメージで、この物体はオレンジ帯の方向から飛行機の進行方向に向かっているように見えます」という。ネガを直接鑑定すれば、この「オレンジ」の正体も分かるだろう。123便は横からのG(圧力)によって機体が揺れている。「後部圧力隔壁損壊」では横揺れは起きないという。この「オレンジ」が右方向から123便に接近しているとすれば、この「オレンジ」と123便墜落との間に重要な関連があるとは言えまいか”

August 21 2017

mr-absentia

YouTube: Japan Airlines Flight 123 Accident (12 Aug 1985) - Cockpit Voice Recorder

“Japan Airlines Flight 123 was a Japan Airlines domestic flight from Tokyo International Airport (Haneda) to Osaka International Airport (Itami). The Boeing 747-SR46 that made this route, registered JA8119, suffered mechanical failures 12 minutes into flight and 32 minutes later crashed into two ridges of Mount Takamagahara in Ueno, Gunma Prefecture, 100 kilometers from Tokyo, on Monday 12 August 1985. The crash site was on Osutaka Ridge (おすたかのおね, Osutaka-no-One), near Mount Osutaka. All 15 crew members and 505 out of 509 passengers died, resulting in a total of 520 deaths and 4 survivors. It remains the deadliest single-aircraft accident in history.”

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日航ジャンボ機墜落事故の概要

“18時24分35秒。123便は伊豆稲取港の東約4Km沖の上空にあった。事故調は「ドーンというような音」としているが、ボイスレコーダーを聞いてみると「ドドーンドンドン」と聞こえる。近くにいた生存者(落合由美さん)は「パーン」という乾いた高めの音だったと証言している。破壊音はジャンボ機の60mの胴体内を伝わっていく過程で、高音が減衰し、エコーも混じってコックピットのボイスレコーダー用のマイクに収録されていた。衝撃音に続いて「ビー、ビー、ビー」と3回ブザーが1秒間鳴っている。この警報音は客室内の気圧が1万フィート(3000m)の高さの気圧以下になったか、離陸警報が作動したかのいずれかだと考えられている。

操縦室では機長が「ギアみてギア」といい、続いて「スコーク77(セブンセブン)」と緊急事態を意味する信号の発信を指示している。通常の訓練なら異常事態を把握して、そのときの状況で必要なら「スコーク77」を発信することになっている。それがいきなり「スコーク77」の発信指示したことは、よほど危険を感じるような振動であった可能性が高い。

123便は相模湾上空で垂直尾翼の大半を失い、同時に油圧4系統全ても切断されて徐々に操縦ができなくなっていった。もちろん、乗員は原因について知るよしもない。焼津市上空を通過したあたりから次第にダッチロール(機首の横揺れと左右の傾き)が激しくなり、右に60度、ついで左に50度も傾いた機長は「バンクそんなにとるな」と注意するが、このときはすでにパイロットの思い通りの操縦ができなかったと推察される。

ダッチロールによる機体の揺れで、風切り音が笛の音のように不気味に聞こえてくる。フゴイド運動(機首の上下運動)も加わり、15度から20度も機首が上向き、今度は10度から15度も機首下げの状態を繰り返した。運行乗務員の思うように上昇、降下、旋回もできず、当初、東京航空交通管制部に要求した大島経由で羽田空港に引き返すこともできない状態になっていた。123便は右に大きく旋回し、北の富士山の方向へと飛行を続けていく”

“操縦室では機体の操縦に次第に慣れ、左右のエンジンの操作がスムースになり、機体も安定し始めていく。このころ、乗員同士の会話では酸素マスクをつけるかどうかのやりとりがあるが、酸素マスクをつけないまま最後まで操縦を行う。乗員が酸素マスクをつけていなかったと考えられる理由は、酸素マスクをつければくぐもった声になるが、そうなっていないからである。航空機関士と客室乗務員のやりとりでは、壊れた場所の確認と酸素マスクの話に移っていく。航空機関士は日航との会社無線(カンパニー)で「アールファイブ(R5=右側5番目)のドア、ブロークン」と報告している。これが当初、事故原因だとして発表された。

機体の調整は左右のエンジンを噴かしたり、絞ったりしながら失速しないように飛行を続けるが、機体のダッチロール、フゴイド運動に対しては、車輪を下ろすことで安定させようと試みている。一度、車輪を下ろせば油圧がないため、二度と上げることはできない。車輪が下ろされると空気抵抗が強くなり、速度が下がり、失速につながる可能性がある。それでも機体を安定させることが大事であったのだろう。失速を防ぐためにはエンジンの推力を増加させる必要がある。大きな推力を出すと、左右のエンジンのバランスが難しくなり、山梨・大月市付近では大きな旋回をすることになる。

7000フィート(2100m)あたりまで降下すると、今度は周辺の山に気をつけねばならない。周辺には雲取山(2017m)、甲武信ヶ岳(2475m)、八ヶ岳(2899m)がそびえている。「山にぶつかるぞ」「ライトターン」と指示を出し、「マックスパワー」と最大限に推力を上げて危機を乗り越えていく。

操縦室からは東京航空交通管制部に何度も「操縦不能」を伝えている。羽田空港の管制も加わって123便に周波数の変更を指示するが、123便は操縦操作に追われて自分自身の位置が分らなくなっていた。羽田管制は「熊谷(埼玉県)の西、25マイルだ」と伝える。秩父山系の埼玉県大滝村あたりを飛行していた”

“長野県の川上村、南相木村に少し入ったところで右に旋回し、御座山をかすめて御巣鷹山方面へと向かっていく。川上村の梓山地区では農作業中の人たちが、頭上をゆっくり旋回していく123便を目撃していた。目撃者は「何か変な感じだった」と123便の飛行状況について証言している。ただ、垂直尾翼を半分以上失い、車輪を出して飛んでいるところまでは、目撃者の多くは確認していない。

機体は速度が変動し、エンジン推力も大きく変動している。もはや、乗員による操縦操作は不可能となっていた。墜落時には速度265ノット(時速490km)で、後に「U字溝」と名付けられた尾根の木々に翼端やエンジンが接触し、水平尾翼は脱落した。この時点でボイスレコーダーの録音は終わっている。時間は「18時56分28秒」であった。

残された機体は、北西に570m離れた谷向こうの蟻ヶ峰(神立山)の北北東にあたる無名の尾根に裏返しの状態で激突する。胴体後部が折れ、スゲノ沢に滑り落ちて行く。4人の生存者(落合由美さん、川上慶子さん、吉崎博子さん、吉崎美紀子さん母娘)はこの胴体後部の座席だった”

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Keiko Kawakami, one of the four survivors of the 1985 JAL 123 plane crash. She was 12 at the time of the disaster. The photo depicts her talking to a TV interviewer, probably at the hospital she was admitted to after the crash. source: YouTube

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“6時24分30秒頃,異常な衝撃が発生した。

〔コックピットにおける機長の発言の再現〕 なにかわかったの? ギア見てギア。え? ギアギア!

このときすでに,水平尾翼の中に設置された水平安定板のセンサーが破損している。

〔川上慶子さんの証言〕 左後ろの上の天井のほうがバリッといって,それで穴があいたんです。それと一緒に,白い煙みたいなのが前から入ってきて…

〔落合由美さんの証言〕 子供たちはお母さーんって言ってましたし,パニックでした。で,キャーッていう悲鳴ばかり…

6時24分44秒,酸素マスクが降り,緊急事態を知らせるアナウンスが流れた”

— 1985年日航機墜落について,当時のテレビ番組「アフタヌーンショー」より (source: YouTube)

August 19 2017

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日本航空123便墜落事故・落合由美さんの証言

落合由美さんは日本航空のアシスタントパーサー。当日は非番で123便に乗り合せていました”
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“19 ^ 酸素マスク着用を促す航空機関士に対して機長、副操縦士が同意するが、3名とも墜落まで着用した形跡はない。その理由については不明である。

20 ^ R5 のドアは墜落現場で破損していない状態で発見されている。航空機関士は機長に対して「R5付近の酸素が落っこちてます、ディセンド(降下)したほうが良いと思います」と報告した後に「荷物の収納スペースの所が落っこちてる」と報告している。なぜ「R5 のドアがブロークン」と羽田のJALオペレーションセンターへ連絡したのか、そもそも連絡がどのような内容であったかは不明である”

— wikipedia: 日本航空123便墜落事故 (注釈)

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“元日本航空の客室乗務員であった著者は、1985年8月12日(月)に起きた日航ジャンボ機123便の墜落事故時に、多くの同僚を亡くした。本書は、今年で33回忌を迎えるこの時期に、亡くなった多くの乗客と同僚の鎮魂のために、改めて事故の真相に迫ったものである。著者には、この事故を扱った著書『天空の星たちへ-日航123便 あの日の記憶』(マガジンランド、2010年刊)があるが、この前著刊行後も進めてきた調査をまとめたものである。前著同様、公式事故報告書への根本的疑問を深化させ、日航123便墜落は、事故ではなく限りなく事件に近いことを目撃証言から明らかにしたものである。

本書を読むと、公式報告書で圧力隔壁の破裂が事故原因とされていることへの疑問が強まる。

本書の主張を以下に要約する。
(1)生存者の証言や事故死した乗客が撮影した墜落直前の機内写真からは、圧力隔壁の破裂の兆候(機内圧力が急降下するはず)が見られない。
(2)乗客が事故直前に移した写真から、日航機に近づくオレンジ色の物体が発見されている(専門家の意見では、自衛隊の無人標的機または練習用ミサイルの可能性があるという)。
(3)事故発生後、日航機を追跡するファントム機2機が、墜落地点間近も含めて、何ヵ所かで目撃されている(本書の記述を敷衍すると、上記の誤射に気付いた自衛隊機が日航機の行方を追っていた可能性が高い)。
(4)本書のサブタイトルにあるように、墜落地点近くの小学校および中学校の生徒たち235名が文集として当時の目撃証言を記録している。それによれば、日航機をファントム機2機が追跡しているのや、同時に「真っ赤な飛行機」も目撃されている(日航機を目標と誤認した練習用ミサイルという可能性もある)。
(5)米軍機が墜落場所を事故直後に把握していたのに、救出活動が12時間後になった理由が未だに不明である。自衛隊や政府、NHKなどは、御巣鷹山付近に墜落したという多数の目撃情報を無視し、救援活動を意図的に遅らせたとしか考えられない(自衛隊による「証拠隠滅」の時間が必要だったのだろう)。
(6)救援活動に当たった多数の医師や消防団員の証言によれば、遺体は原型を留めないほど炭化していた(航空機事故では稀だという)。また、航空機用燃料(灯油とほぼ同じ成分のケロシン)とは異なるガソリンとタールの匂いが充満していた。燃焼区域は広範囲で、しかも燃料タンクが落下した地点とは離れていた(軍事専門家によれば、火炎放射器を用いた意図的な証拠隠滅の可能性があるという)。
(7)肝心の圧力隔壁は、発見後(何故か)直ちに小さく分割されて回収された(このことにより、圧力隔壁が真の事故原因かどうか追跡することが困難になった)。
(8)事故の真相を明らかにするはずの、ボイスレコーダーの記録の全貌が公開されていない。

以上の事実を繋ぎ合わせれば、日航123便の事故原因は、自衛隊機の練習用ミサイルが日航機を誤って追跡し、それにより日航機の垂直尾翼などが破損し、日航機は操縦不可能となって、迷走の上、御巣鷹山に墜落した、という恐るべき真相が浮かび上がってくる。事故直後の政府や自衛隊の不審な動き、そして直ちに救援に救援に向おうとしたアメリカ軍がなぜか取り止めたことなど、多くの謎が一気に解決できる。本書が推定した事故シナリオを証言できる関係者も多いはずであるが、いつかは名乗り出て証言して欲しいものだ”

— youtube.com: 【紹介】日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る (青山透子) (2017年8月12日)

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Passenger room of the Japan Airlines 123 that crashed into a mountain in Gumma Prefecture in August 12, 1985, claiming 520 lives. This picture was developed from a film found in the disaster site. A photo well-known in Japan.

For details of the incident, see wikipedia. Here you can follow the flight route of the JAL 123 until the crash, with communications recorded in the cockpit voice recorder (maybe shocking for some people, though).

The crash isn’t a mere historical event. Lots of evidence and witness accounts available today strongly suggest a possibility that Japan’s SDF and/or US forces destroyed the vertical stabilizer of the aircraft, accidentally or on purpose, thus letting it become out of control and crash. There is also a suspision that the government of then Prime Minister Nakasone mobilized SDF or police and executed a cover-up operation - burning victims’ bodies and killing some SDF officers. If these allegations were proved, we would have to think the 1985 disaster was a horrific crime committed by the government of Japan, and possibly US. Stay woke!

Reposted byRekrut-K Rekrut-K
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Keiko Washino, 19, one of the 520 victims of the Japan Airlines 123 crash in 1985. She was on her way home from the Tokyo Disneyland. This picture was developed from the film in her camera found in the disaster site. source: youtube

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Delayed rescue operation

United States Air Force controllers at Yokota Air Base situated near the flight path of Flight 123 had been monitoring the distressed aircraft's calls for help. They maintained contact throughout the ordeal with Japanese flight control officials and made their landing strip available to the aeroplane. The Atsugi Naval Base also cleared their runway for JAL 123 after being alerted of the ordeal. After losing track on radar, a U.S. Air Force C-130 from the 345th TAS was asked to search for the missing plane. The C-130 crew was the first to spot the crash site 20 minutes after impact, while it was still daylight. The crew sent the location to Japanese authorities and radioed Yokota Air Base to alert them and directed a Huey helicopter from Yokota to the crash site. Rescue teams were assembled in preparation to lower Marines down for rescues by helicopter tow line. Despite American offers of assistance in locating and recovering the crashed plane, an order arrived, saying that U.S. personnel were to stand down and announcing that the Japan Self-Defense Forces were going to take care of it themselves and outside help was not necessary. To this day, it is unclear who issued the order denying U.S. forces permission to begin search and rescue missions.[22]

Although a JSDF helicopter eventually spotted the wreck during the night, poor visibility and the difficult mountainous terrain prevented it from landing at the site. The pilot reported from the air that there were no signs of survivors. Based on this report, JSDF personnel on the ground did not set out to the site the night of the crash. Instead, they were dispatched to spend the night at a makeshift village erecting tents, constructing helicopter landing ramps and engaging in other preparations, all 63 kilometers (39.1 miles) from the wreck. Rescue teams did not set out for the crash site until the following morning. Medical staff later found bodies with injuries suggesting that individuals had survived the crash only to die from shock, exposure overnight in the mountains, or from injuries that, if tended to earlier, would not have been fatal.[14] One doctor said "If the discovery had come ten hours earlier, we could have found more survivors."[23]

Off-duty flight attendant Yumi Ochiai, one of the four survivors out of 524 passengers and crew, recounted from her hospital bed that she recalled bright lights and the sound of helicopter rotors shortly after she awoke amid the wreckage, and while she could hear screaming and moaning from other survivors, these sounds gradually died away during the night.[14]
Japan Airlines Flight 123 - Wikipedia
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